ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Michael Redhill の “Bellevue Square”(2)

 前回もふれたとおり、これはカナダで最も権威のある文学賞、ギラー賞の2017年度受賞作。また、現地のファン投票(Shadow Giller)でも1位を獲得した作品である。それなのに、ぼくの評価は☆☆★★★(約55点)。あんた、読み方がおかしいんじゃないの、と座布団が飛んできそうだ。
 選考理由や、ファン(有名な文学ブロガーだった故 Kevin 氏のブログ KevinfromCanada を不定期で更新している氏の友人たち)のレビューは未読だが、察するに、ぼくの興ざめした後半の評価が高いのではないかしらん。
 主人公の古書店主 Jean が、自分のドッペルゲンガーである Ingrid と接触。以後、詳細は省くが、たしかに奇妙キテレツ、摩訶不思議な展開で、これを褒めるなら「奇想の極致」とでも言えるだろう。
 ぼくは文学にはいろいろな読み方があっていいという立場なので、自分の評価がぜったい正しいとか、大方の意見が完全に間違っているなどとは思わない。「奇想の極致」か、すごいねえ、と感心する人がいてもいっこうにかまわない。
 ただ、ぼくとしては、どんなに「奇妙キテレツ、摩訶不思議な展開」であっても、そこに何らかの意味がなければ、少なくとも読後に、あれはこんな意味だったんだろうなと思わせるようでなければ、高い点数はつけられない。
 本書は要するにこんな話だ。Jean が自分のドッペルゲンガー Ingrid と出会う。すると Ingrid も Jean がドッペルゲンガーだと認識していたことがわかる。そんな二人の接触・対決が「奇妙キテレツ、摩訶不思議な展開」なのである。
 Jean は幕切れでこう述懐している。This was just a rift. In my perception, or someone else's. In my thinking, my beliefs.(中略)I believe in the transmission layer because it's everything everywhere all the time. It's the only thing I'm certain I'm in. I'm in the rift.(p.261)
 この rift はおそらく「存在の裂け目」を指しているものと思われるが、rift に関する記述はたったこれだけ。哲学的な雰囲気こそあれ説得力がない。なんだか取って付けたような結論である。
 一事が万事。ぼくの見るところ、作者は「不思議な事件があってもすべて現実のことなのだと強弁しているにすぎない」。Jean にドッペルゲンガーの存在を知らせた人たちが不審な死を遂げるのがいい例だ。その後まったく説明がなく、あれはいったい何だったんだろう、とぼくは首をひねってしまった。
 作者は素通りしているが、「存在の裂け目」とはじつは重大な問題である。たまたま先週、Joyce Carol Oates の "Them" についてぼくがコメントした「人間存在の断絶とその超克をめぐる葛藤」につながるからだ。
 そう、Jean にも Ingrid にも内的な葛藤がない。そこが本書の最大の欠点だろう。「現実とは何か。自分はどんな存在か」という「実存の問い」を発しておきながら、ただ「奇妙キテレツ、摩訶不思議」な話を作っているだけ。「作者は実存の問いをもてあそんでいるのではないか、とさえ疑いたくなる凡作である」。
(写真は宇和島市妙典寺、桜の木のある裏山に抜ける通路。上は行き、下は帰り)