今回も大したことは書けそうにない。ぼくは本書を読むまで知らなかったが、16世紀前半、イングランドではペストが流行していたようだ。But now there are rumours of plague and sweating sickness. It is not wise to allow crowds in the street, or pack bodies into indoor spaces.(p.192)
これ以前にもペストにかんする記述があったような気はするが、ぼくがメモしたのはここが初めて。以後、何か特別な対策が講じられていたのだろうかと注意しながら読むと、さらに何ヵ所かこの話題が出てきた。
が、案の定、上のとおり基本的に「3密」を避けろというだけで、ほかに防ぎようがなかったようだ。ワクチンや特効薬が開発されないかぎり、状況は「昔もいまも本質的にはさほど変わらないようにも思える」。
そんな現在の危機を Mantel が予測していたはずはない。本書の英版刊行は今年の3月5日だからだ。もし1年後だったら、タラレバ話だが、多少は現代を意識した書きかたになっていたかもしれない。それはともかく、予測や意識の範疇を超えて、上のくだりのように、結果的に現代のイギリスを一部反映しているところが面白い。
つぎの箇所には、思わずニヤっとさせられた。Young men claim they want change, they want freedom, but the truth is, freedom just confuses them and change makes them quake. Set them on the open road with a purse and a fair wind, and before they've gone a mile they are crying for a master: they must be indentured, they must be in bond, they must have somebody to obey.(p.419)
たまたま何回か前の記事でぼくは、福田恆存の『人間・この劇的なるもの』の一節を引用したばかり。「自由とは、所詮、奴隷の思想ではないか」。はてさて、偶然というのは、ほんとにあるものだ、と上の英文を読んで思った。
その流れで、久しぶりに新型コロナウイルスの問題について書こう。「医師に緊急アンケート」とかいう某誌の記事をネットで見かけ、何か予防に役立つことはないかと読んでみた。が、なるほどと思ったのは、「身体を冷やさない、水分補給を怠らない」という助言だけ。しかしこれ、ふつうの風邪対策とまったく同じで、効果の点ではマスクの着用と大同小異。それならアベノマスクとやらを不要とも言えないはずなのに、不要と断じる先生もいるらしい。
もっと笑ってしまったのは、「新型コロナウイルス関連のニュースを聞かない」。余計な不安やストレスは避けるべしということだろうが、それならこの記事そのものを読むなと言っているに等しい。不要不急の記事は自粛、と茶化したくなった。
新聞の広告で見かけた、「小誌だけが知っているコロナの真実」という某誌の記事も不要不急。その「真実」の第一に挙げられているのは、首相が夫人や政府を制御不能という内容で、それなら「コロナの真実」ではなく、「首相夫妻の真実」とか「首相官邸の真実」と題するほうが正しい。それを「コロナの真実」の最たるもののように扱うとは、あとの内容もたかが知れている、と邪推したくなった。
邪推といえば、昼のワイドショーで、大臣経験のある某大学教授が、「これは邪推ですが」と前置きして自説を展開するのを聞いて驚き、呆れた。あとで批判されないように予防線を張っているのか、邪推でも正論と受けとめる視聴者がいることを期待しているのか、いろいろ邪推したくなる。とそんな反応も計算ずくのような発言で、いずれにしろ、大まじめに平然と邪推を述べる姿がいまだに目に焼きついている。
この教授にかぎらず、どのコロナ番組でも、「……と思う」「……かもしれない」という発言があまりに多すぎる。いまだ医療専門家でさえ推測の域を出ない不明の要素があるとはいえ、邪推や臆測だらけの番組なら井戸端会議となんら変わりない。「ニュースを聞かない」というのも一理あるわけだ。
しかしながら、たかが臆測とあなどるなかれ。「……と思う」という発言では、「……」の部分にインパクトがある。そして発言者はつぎに、「だから……である」と断定しがちだ。これはアジテーションの一種ではなかろうか。
そうした扇動に乗りやすい国民性についてはすでに述べた。「ひとりひとりの行動が問われている」というと聞こえはいいが、ざるのなかの小豆のような存在なら、いや、そうでなくても自己管理はむずかしい。「自分も感染しているつもりで行動に注意」とは、その趣旨は理解できるが、これは一方、「人を見ればコロナと思え」と言っているようなもので、実際、そういうヒステリックな反応の事例はあとを絶たない。ざるのなかの小豆であればあるほど、集団ヒステリーを起こしやすいものだ。
そのヒステリー症状には、自分の責任は棚に上げ、他人のそればかり追求するというタイプもある。上の2誌にしても、新聞やネットに載っている記事の見出しから判断するかぎり、新型コロナウイルスの問題を大々的に採り上げるようになったのは、緊急事態宣言の発令以後のようだ。それまで真剣に考えていなかった証拠ではないか。
その2誌同様、「遅い、足りない、行き届かない」という意見は非常に多い。ぼくもそう思う。と同時に、「遅い、足りない、行き届かない」のはいまに始まった話ではなく、理想的には米軍による占領時代が終わり、ふたたび独立国となった時点から考えておかねばならなかった問題である、とも思う。
ところが、緊急事態を想定することそのものが長らく危険視されてきた、というのが実情だろう。それゆえ人びとは、緊急事態がどういうものか具体的に考える習慣がない。目の前で大事件が起こってはじめて考える。自粛要請だけでは不十分とやっと気づく。「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四はいで夜も寝られず」という幕末から、ほとんど進歩していない。このことも前に書いた。いまは要するに、長年のツケが回ってきたわけだ。その意味で、責任はすべての国民にある。ぼくも例外ではない。
一方、ここでようやく "The Mirror & the Light" に戻ると、前2巻ほどの緊迫感には欠けるものの、本書でも国際情勢の変化にともなう緊急事態がいくつか描かれている。横暴な専制君主ヘンリー8世に重用された宮内長官トマス・クロムウェルには、責任を他人に転嫁するゆとりなどまったくない。そんな作品を読み、彼我の差を思い知るのもひとつの楽しみかたではないだろうか。以上、不要不急の記事ばかりですみません。
(写真は、石川県ヤセの断崖にほど近い前浜の風景。2月に撮影。リメイク版の映画『ゼロの焦点』にも、同じような景色が出てきた。手前の民家など、あの現地妻が住んでいた家の雰囲気たっぷりかも)