ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Charles Yu の “Interior Chinatown”(2)

 きょうは仕事始め、ならぬ読書始め。ほんとうはぜひ、若いころ途中まで読んだ George Orwell の "Homage to Catalonia" を、と思っていたのだけど、年末にちょっとかじった Joseph Boyden の "The Orenda"(2013)が気になり、ボチボチまた読みはじめたところ、わりと面白い。同年のギラー賞一次候補作で、ファン投票では Shadow Giller Prize を獲得した作品である。
 舞台は1640年代のカナダ。ヒューロン湖にその名をのこすヒューロン族と、オンタリオ湖の南岸に住んでいたイロコイ族の抗争、ビーバー戦争がどうやら扱われているようだ。どうやら、というのは、まだまだ前哨戦のような感じで、本格的な戦争に発展するかどうかは不明。ただ、大作なのでその可能性大といったところ。
 読書始めと書いたが、三が日も寝床のなかでは『蜜蜂と遠雷』を読んでいた。つい夜更かししそうになるほど面白い。各ピアニストの演奏場面の描写に舌を巻いている。恩田陸はふだんからよほど各曲を聴きこんでいたのか、相当に下調べをしたのか、とにかく音楽を文字で表現することの困難をみごとに克服。さすがですな。
 それにひきかえ、"The Orenda" のほうはまだ序盤のせいか、面白いといっても、ときどき眠りこけてしまうことがある。表題作の "Interior Chinatown" となると、じつはもっと眠かった。
 ただし文学性という点では、同じ全米図書賞受賞作でも、一昨年の "Trust Exercise"(☆☆★★★)よりずっと高く評価すべき作品である(☆☆☆★★★)。同書はメタフィクションのためのメタフィクションという技巧が鼻につき、内容そのものはお粗末。ケンカ中の夫婦、別れた男女、どちらの言い分が正しいか、という次元とたいして変わらないような気がした。それを技巧でカバーしている点が鼻につくわけだ。
 これにたいし、"Interior Chinatown" の場合、「メタフィクションは必然的に最適の技法である」。この点についてはレビューで明らかにしたつもりだ。
 すこし補足すれば、アメリカで Asian といえば、白人にとっても黒人にとっても本音のところでは、いまだにチャーリー・チャンなんだろうな、という思いを強くした。チャーリー・チャンとは、Wiki によれば、「1925年にアール・デア・ビガーズの推理小説シリーズで創られた架空の刑事。ハワイのホノルル警察に勤める中国系アメリカ人」である。画像を見れば、ああ、なるほど、と納得できるだろう。あれこそ Asian のステロタイプであり、そのことを表現するのにメタフィクションはおあつらえ向き、という判断があったのではないか。
 心にのこった文言がひとつある。.... fulfilling his destiny ....(p.253)
「中国系移民はついにステロタイプのまま、アメリカ社会から与えられた型どおりの役を演じつづけるしかない」というテーマに直結したものだが、ぼくは福田恆存のこんな言葉を思い出した。「みなさんが愛するのは、苦しんでも失敗してもいいから、いかにも自分の宿命を生ききったという感じを与える生きかたでありましょう。(中略)みなさんが欲しているのは、自由に生きて、しかもそれが行きづまることです。自分のやりたいことをやって、もうこれ以上は自分の力に負えぬという限界にぶつかることです。(中略)私たちの欲しているのは、いわゆる幸福で不自由のない生活ではなく、不幸でも、悲しくも、とにかく顧みて悔いのない生涯ということでありましょう」。
『私の幸福論』の一節だが、ぼくはこれを近ごろやっと、ちょっぴり実感できるようになってきた。
 
(下は、この記事を書きながら聴いていたCDの1枚) 

Concerts avec plusieurs instruments Vol 4

Concerts avec plusieurs instruments Vol 4

  • 発売日: 2009/03/10
  • メディア: CD