ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Tayeb Salih の “Season of Migration to the North”(3)

 まったりペースながら海外の小説を読んでいると、おそらく日本の現代文学ではさほど扱われていないのではと思えるような問題について考えさせられ、しかもそれぞれの問題に関連性のあることが、たまにある。coincidence の妙というべきか。
 不可解なことにブッカー賞ショートリストに入選しなかった "The Colony" では、ゴーギャンの名画『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』が紹介され、その具体的な意味として、「この地球で我々はいかに共存するか」という今日いまだに未解決の問題が浮上。そのうえで、「ものごとを単独の視点から固定的にとらえるのではなく、すべてを変化・発展する連続した平等の存在としてながめる」立場がひとつの答えとして示されていた。

 ぼくはこの linear view にいたく感心し、「危機の時代を生きる知恵」と評したのだけれど、その後、これとかかわる記述を表題作で見つけた。see with one eye, speak with one tongue and see things either black or white(p.125)こんな偏見や固定観念こそ、「ものごとを単独の視点から固定的にとらえる」見方そのものではないか。

 一方、linear view からすれば、そこに映るものは当然、"Season of Migration ...." の Mustafa が心の内外で体験したような「分裂と衝突」、つまり矛盾に満ちた人間のありのままの姿である。「すべてを変化・発展する連続した平等の存在としてながめる」とは、矛盾を矛盾のままに受け容れるということでもあろう。
 と、ここまでは "The Colony" と "Season of Migration ...." は軌を一にしている。が、後者は Mustafa の分裂と衝突ではなく、語り手が「最後、北へ南へと流れるナイル川のなかで生死のはざまをさまよいながら、ある決断をくだす」シーンで幕を閉じる。
 これを読んだぼくは、「分裂から決断へ、というのはすこぶる人間的な生きかた」だと感動したものだけど、それがなぜ人間的なのかというと、ひとはふつう、いつまでも「変化と流動のみを是とする相対主義」に甘んじてはいられないからだ。
 上の偏見・固定観念にたいして、see with both eyes, speak with more than one tongue and see things both black and white という見方は、うまく機能すれば、「すべてを変化・発展する連続した平等の存在としてながめる」、「矛盾に満ちた人間のありのままの姿」を「矛盾のままに受け容れる」力、一言でいえば、すぐれたバランス感覚の源となる。
 ところが、それはひとつまちがえると、なんでもあり、どんな事態が起きても許容するという「変化と流動のみを是とする相対主義」、ひいては日和見主義に堕してしまう恐れがある。
 ここで思い出されるのが、この4月、ある有名大学の入学式で述べた某女性映画監督の祝辞である。「『ロシア』という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います」。
 このスピーチの一部をニュースで間接的に聞いたとき、ぼくはなんとなく違和感をおぼたものだが、こうして文書のかたちで読んでみると、その違和感の正体が、いろいろな疑問として明らかになってくる。たとえばまず、この監督は平和主義の立場から侵略戦争に反対しているようだが、それならなぜ、ロシアによるウクライナ侵攻も侵略戦争として「拒否することを選択」しないのか。なぜそれを「悪」と断言しないのか。
 さらにいえば、「『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか」というが、「悪」が存在することに不安はおぼえないのだろうか。「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要がある」というが、どこかの国が自分たちの国を侵攻する可能性についてはどうなのか。もし侵略行為そのものを否定するのなら、他国からの侵略も否定し、それゆえ侵略者と戦うことになるが、その戦いもまた「拒否することを選択」するのだろうか。
 疑問はまだまだつづく。「誤解を恐れずに言うと」、この監督は「だとしたら」と断ってはいるものの、察するに、ウクライナ問題を「正義と正義のぶつかり合い」と見なしているのではないか。彼女のいう「ものの本質」とは、正義とは相対的なものであるということであり、それゆえ「一方的な側からの意見に左右され」るのを恐れるあまり、他方の正義を「悪」として断罪することをためらっているのではないか。
 正義の相対性という問題については、ぼくも過去記事「"Moby-Dick と『闇の力』(12~14)」で自分なりにじっくり考えてみたことがある。

 そしてウクライナ問題にも「正義と正義のぶつかり合い」という側面があることは、ぼくも理論的には認める。旧ソ連、というよりロシア帝国失地回復こそ正義なのだ、とあの大統領は信じているフシがあるからだ。たぶん、そうだろう。が、その「正義」の強制によって現実には血が流れている。この流血の惨を目のあたりにして、「どちらも正しい」、「どっちもどっち」などと、いつまでも第三者的な相対主義の立場を取りつづけていられるかどうか。福田恆存のいうとおり、「さういふ相対主義では、人間は生きられないはずだ。個人の生涯にも、それでは切りぬけられない、ごまかしきれない時期がくるものだ。いや、それが実際に来なくても、それをたえず感じてゐるのが、ほんたうの生きかたでせう」。
 そして国際政治の現実を見れば、いずれ決断のときはやってくる、と覚悟しておいたほうがいい。それはたんに侵略を拒否するだけでなく、拒否するがゆえに相手の正義を「悪」と断じ、それと戦うかどうかという選択かもしれない。イエスにしてもノーにしても、どちらを選ぶか、いまのうちからよく考えておくべきだ。
 とそんな問題を想起させる "Season of Migration to the North" は、「分裂から決断へ、というすこぶる人間的な生きかた」をみごとに描いた傑作である。

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD)

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