Ivan Doig の "The Whistling Season" は子供の世界を普遍的に再現した少年小説の秀作だが、その感想を書いているとき、同じく少年が主人公でありながら、とてつもない傑作があることを思い出した。メルヴィルの『船乗りビリー・バッド』である。
[☆☆☆☆★★] 現代の基準に照らせば確かに英語は難解だが、例えばシェイクスピアの作品を難解だからといって低く評価する人はいない。同様に、本書も英語の難易度だけで判断すべきではないと思う。実は、本書はメルヴィルの入門書としては最適の一冊なのだ。まず、何と言ってもページ数が少ない。ゆえに、たとえ辞書と首っぴきだとしても、他の作品ほど解読に時間はかからない。特にこの版の場合、巻末についている詳細な注釈が非常に役に立つ。が、それはむしろ些末な話だ。本書を万人の読者に推薦するゆえんは、この本と格闘すればするほど、その努力は必ず報われるからだ。フランス革命などに代表されるような、理想主義のもたらす栄光と悲惨という近代西欧文明の問題が、たったこれだけの分量でこれほど見事に集約されている例は空前絶後と言ってよい。その問題にしばし取り組むことによって、読者の人生がいかに豊かなものになることか。それを思えば、難解という理由だけで敬遠するのは実にもったいない。本書の焦点はずばり、ビリー・バッドとクラッガートの対決、および、ビリー・バッドの「罪」を裁くヴィア艦長の決断にある。ビリーとクラッガートの争いは、スケールこそ異なるものの、本質的には、かのエイハブ船長と白鯨の戦いと同じ次元にある。従って、あの白い鯨はいったい何を意味するのだろう、と首をひねっている人にとっても、本書は大いに参考になるはずだ。ともあれ、これは超弩級の名作である。モームは世界の十大小説に『モゥビィ・ディック』を選んでいるが、あれこそ完読するのに気力・体力・時間を要する作品である。それならいっそ、こちらの方がむしろ万人向きなのではないだろうか。ぼくは去年、このレビューを「超弩級の名作」と題してアマゾンに投稿(その後、削除)したが、実際に読んだのは大昔のことで、メルヴィルの作品には長らく接していない。それゆえドイグに話を戻すと、子供の世界を描き、その思い出を綴った "The Whistling Season" はとてもよくできているのだが、では文学史に残る傑作かというとそうではない。『ビリー・バッド』はもちろん5つ星の評価で、それどころか5つでも足りないくらいだが、ドイグのほうは星4つ。この評価を分ける基準はいったいどこにあるのだろう。
現代の作品のレビューを書くたびに思うのだが、19世紀の名作はもちろん、少なくとも文学史に残っている20世紀前半の作家のものと同列に論じることは非常に難しい。差が歴然としすぎているからだ。今年のブッカー賞候補作でも、例えばイアン・マッキュアンの "On Chesil Beach" など、それなりに面白いことは面白いのだが、9月5日の日記にも書いたように、同じ愛の断絶をテーマにしたロレンスの諸作と較べると余りにも次元が低い。
こうした新旧の差は、今さらぼくなどが指摘するまでもないことだが、いつも悩むのは、人生のさまざまな問題にふれながら深く追求することのない多くの現代作家の作品を評価するとき、ただ突っこみが足りないという理由だけで星の数を減らしていいのかということだ。小説の採点など、しょせん遊びに過ぎないと思いつつ、いざレビューを書くとなると、どうも遊びに徹しきれない。自分は何を基準にして星数を決めているのだろうか。
このような疑問にとり憑かれてから、ぼくはめったに5つ星をつけなくなってしまった。この問題については今日だけでなく、これから暇なときに少しずつ考えていこうと思う。