ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Elif Shafak の "The Bastard of Istanbul"

 Elif Shafak の "The Bastard of Istanbul" をやっと読みおえた。今年のオレンジ賞のショートリストに選ばれなかったのが惜しまれる秀作である。

[☆☆☆★★★] 家庭小説、歴史小説フォークロアなど、じつにさまざまな要素が渾然一体となった「文学バザール」である。主な舞台もバザールにふさわしく、東洋と西洋の架け橋の街、イスタンブール。超ミニ姿のセクシーな若い娘ゼーリアが中絶手術を受ける場面から物語ははじまる。相手の男は不明。アラーの神のお告げで手術は中断され、やがて生まれた私生児アーシャが主人公かと思いきや、話は急にアリゾナ州へ飛び、ゼーリアの兄がアメリカ人の子連れ女と出会う。約20年後、成長した連れ子のアーマヌーシュが、アルメニア人の実父とトルコ人の継父のあいだでアイデンティティの問題に悩む。一方、トルコでは、やはり成長したアーシャがニヒルな人生観を持つようになり……と目まぐるしく視点が変化。エキセントリックな人物が何人も登場してドタバタに近いコメディがつづく。それが一転、こんどは第一次大戦当時、トルコがアルメニア系住民におこなったジェノサイドをめぐって議論が沸騰。迫害の実態がドキュメンタリーふうに描かれる。そこへアーシャとアーマヌーシュの青春物語や、ふたりの家族の年代記も混入。はたまた、占い師と霊がふしぎな物語をつむぎ出す、などなど、これはやはり「文学バザール」としかいいようがない。それが支離滅裂になるのを防いでいるのは、人間が過去と現在を同時に生きる存在であるというテーマであり、そのテーマを支えるパワフルな文体である。

 …今年のオレンジ賞候補作を読むのは、Charlotte Mendelson の "When We Were Bad" に次いで2作目。個人的な好みを言えば、ショートリストに残った同書より、こちらのほうが大いに気に入った。かちっと仕上げている点ではたしかにメンデルソンのほうが一枚も二枚も上だが、エリフ・シャファクの作品には、荒削りだが破天荒な面白さがある。家庭小説として較べてみても、"When We Were Bad" が「コップの中の嵐」の域を出ていないのに対し、この "The Bastard of Istanbul" ではさまざまな文学的冒険が試みられている点を高く評価したい。
 むろん、その冒険はすべて成功しているわけではなく、空中分解とは言わないけれど、読み終わってみれば、あそこはかなり脱線だったな、と思える箇所もけっこうある。だが、その脱線がまた面白く、決して無駄にはなっていない。ちょうどバザールで有象無象の商人や客と出会い、買い物以外に雑談を交わしたり、目当ての品を探すだけでなく手当たり次第に物色し、キッチュな小物を買ったりする。そんな楽しさがここにはある。
 トルコにおけるアルメニア人虐殺の歴史は、恥ずかしながら知らなかったが、ざっと検索すると、例によっていろいろな説があるようだ。このジェノサイドの問題は、数ある本書の構成要素の中でも重要なものの一つだが、無知なぼくでも納得できたのは、虐殺を非難するアルメニア人の側に、犠牲者であることに安住している姿勢があるという、アルメニア人自身による指摘だ。もちろんこれは作中人物の話なので、そのような姿勢が実際に認められるかどうかは分からない。だが、いかにも現実味のある指摘であり、シャファクの鋭い知性を感じさせるくだりだ。(このアルメニア人虐殺についての記述が原因でシャファクは告訴されたということだが、文学作品として鑑賞するには何ら問題ではない)。
 それほど深刻な歴史問題がファミリー・サーガに紛れこむ一方、個人的なレヴェルでも、連れ子がアルメニア人を父に持つ意味を確認すべく過去との絆を求め、冒頭では示されなかった中絶の理由や男の正体が終幕で明かされるという物語の柱がある。つまり、民族的にも個人的にも過去と現在の接点が描かれているわけであり、それを「文学バザール」の形でにぎやかに脚色しているところが、本書の最大の「文学的冒険」と言えるだろう。
 とにかく、ショートリストから洩れてしまったのが信じられないほどの力作だが、難を言えば、まとまりの悪さに加え、やはり結末が結末だけにカタルシスはどうしても得られない。最後にぐっと胸をえぐられるようなエピソードがあれば文句なしだったのにと思う。次の作品を期待することにしよう。