きのう Lawrence Durrell の "Justine"(1957)を読了。周知のとおり、これは The Alexandria Quartet の第1部であり、本来なら著者の意図どおり、4部作を a single work として読み、レビューを書くべきところだが、いつになったら完読できるのかわからない。
また、4部作はもともと1957年から1960年にかけてべつべつに出版され、1962年に合冊本として上梓されたいきさつもある。
というわけで、とりあえず "Justine" のレビューだけ書くことにしました。もちろん全巻通読後に訂正せざるを得ない可能性は大いにあります。
追記:本書は1969年に映画化され、同年、日本でも「アレキサンドリア物語」というタイトルで公開されました。監督はジョージ・キューカー。
[☆☆☆☆★★] 通説によればテーマは「現代の愛の探求」。たしかにジュス
ティーヌとその夫、愛人、そのまた恋人をめぐる四角関係を中心に、ここでは愛の諸相が示され、その本質が追求されている。が、と同時に自己の探求、ないし自我の確立の試みも認められるのではあるまいか。確たる自分がいなければ他人を真に愛することもできない。しかし上の探求や試みの必要があるということは、それだけ自我が希薄になり、人間が弱くなったということだ。事実、本書の時代は「血の匂いがする」第二次大戦前夜。舞台は「愛をしぼりとり、性に傷ついた者が生まれる」街、
アレクサンドリア。そこに「私」をはじめ、精神的に虚弱な男たちが集まっている。彼らは女と出会い、恋に落ちる。愛の嵐の中心にいるのがジュス
ティーヌだ。唯一、強烈な存在である。しかし彼女もまた自己を模索している。愛とは、それによって成長し、自分自身を所有するにいたった者同士が超然として魂の奥底で結びつくこと。そのときはじめて、ひとは自由意志の極限に達し、神の前で不滅の霊魂となる。ジュス
ティーヌと男たちの関係からは、
キリスト教文化における、そんな究極の純愛が見えてくる。けれどもそれは愛の一面にすぎない。上の四人はそれぞれ相補的な存在であり、彼らの愛はいわば愛の四面を示すものだ。むろんそこには矛盾と対立がある。こうした分裂をはらむ愛を描くうえで、多民族、多宗教、多言語の街
アレクサンドリアはまさに最高の舞台であり、叙述形式としても「私」の視点にくわえ、複数の人物の手紙や日記、さらには劇中劇ともいえる小説からの引用も頻出、複雑な構成となるのは
当然の帰結である。五感を刺激する繊細かつ濃密な文体しかり。すこぶる激しい愛の嵐に見舞われた「私」は深く傷つき、いま静かに自身の
アレクサンドリア時代を回想している。四部作の第一巻にして大傑作である。