ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Tolstoy の “The Death of Ivan Ilyich & Other Stories” (1)

 Richard Pevear と Larissa Volokhonsky 夫妻の英訳によるトルストイの短編集、"The Death of Ivan Ilyich & Other Stories" をようやく読みおえた。いつものように、さっそくレビューを書いておこう。なお、こういう古典を現代の作品と同じように評価することにはかなり疑問も覚えたが、とりあえず点数をつけることにした。

[☆☆☆☆★★] 月並みな感想だが、トルストイは偉大なるモラリストだったと思う。もとより聖人君子ではなく、おのが心中にひそむ巨大な悪と生涯闘いつづけた偉人という意である。本書には、その激しい内なる闘いと道徳的煩悶がちりばめられている。それは現代人の感覚からすれば、驚きの連続でもある。Ivan Ilyich は、いまわのきわまで人生いかに正しく生きるべきかと問いつづけ、"The Kreutzer Sonata" の Pozdnyshev は、ひとの命なんぞ二の次三の次、禁欲を守るためには人類が滅亡してもかまわないと宣言。"The Devil" の Evgeny は心のなかの姦淫にもだえ苦しんだあげく破滅し、Sergius 神父は女への欲情に抗すべく、なんと自分の指を切断。彼らの煩悶は、いずれも心中のエゴイズムや道徳的欺瞞にたいしてすこぶる敏感な精神、すなわち、過激なまでに厳しいモラリズムと猛烈な理想主義から生まれたものである。かくも徹底した理想主義を描いた小説は、世界文学史上でも数えるほどしかなかろう。一方、"The Forged Coupon" や "Alyosha the Pot" など軽妙な筆致の作品からは、図式的とも思える人物像を通じてトルストイの理想が見えてくる。純粋な奉仕、自己犠牲、無私の精神である。それを実践すればするほど神の世界に近づくと感じたのが Sergius 神父であり、神父の最後にたどり着いた境地が「軽めの作品」のモチーフなのだ。ひるがえって、表題作をはじめ、人間の「内なる闘いと道徳的煩悶」を採りあげた作品のほうはストーリー性を度外視しているため、けっして読みやすくはない。しかしなにより「猛烈な理想主義」に圧倒される。まさに名作である。ロシア語との対照はできないが、たんに「英語で書かれた作品」として見ても、すぐれた英訳ではないかと思われる。